察する文化 と 恥 の構造、の観点
「正しいことを言っているのに、なぜか嫌な顔をされる」 「筋道立てて説明すればするほど、相手が心を閉ざしていく」
前回は、私が無意識に仕掛けていた「心理ゲーム」についてお話ししました。
しかし、私の「理屈っぽさ」がこれほどまでに周囲(特に日本の組織内)で浮いてしまう背景には、単なる個人の未熟さだけではない、もっと根深い「文化的DNA」が潜んでいるかも!ということで、文化という観点からも探ることにしました。
今回は、私たちが生きる日本社会において、なぜ「論理(ロジック)」がしばしば「悪」とみなされ、「屁理屈」というレッテルを貼られてしまうのか。その構造を、データと歴史から紐解きます。(わたしの場合は、屁理屈だったような気がするが・・・😰)
データが証明する「論理」よりも「気配り」の国
まず、文化庁が行った「国語に関する世論調査」において、「これからの時代の言葉遣いはどうあるべきか」という問いに対する日本人の回答を見てみます。個人的には、衝撃的。
• 相手への気配りを表すものであるべきだ:56.5%
• 話す人の主張を論理的に伝えるものであるべきだ:18.0%
なんと、「論理的に伝えること」を重視する人は、「気配り」を重視する人の3分の1以下!?
さらに、過去の調査と比較すると、「気配り」を重視する傾向は年々強まっている一方で、「論理」の重要性は横ばい、あるいは低下傾向にあるようです。
つまり、日本社会というフィールドにおいては、「話の筋が通っているかどうか(正しさ)」よりも、「相手を不快にさせないかどうか(気持ち)」の方が、圧倒的に高い価値を持っているのです。
録画の中の私が、どんなに精緻な論理を組み立てていたとしても、それが「その場の空気を読まない(気配りの欠けた)」ものであった時点で、日本的なコミュニケーションとしては「0点」😰だったわけです。
わたしも日本人ですから、録画の自分を見て不愉快だと感じたわけですね。。。
「不立文字」と「巧言令色」の呪縛
なぜ私たちは、これほどまでに言葉による論理説明を軽視し、あるいは嫌うのでしょうか。
そのルーツは、日本文化に深く根付いた仏教(禅)儒教の教えにあるようです。
• 仏教(禅)の「不立文字(ふりゅうもんじ)」
禅宗には「悟りの境地は、文字や言葉では伝えられない」とする考え方があるそうです。
真実は言葉を超えたところにあり、以心伝心で伝わるもの。
逆に言えば、「言葉を尽くして説明しようとする行為自体が、まだ悟りを開いていない未熟さの証拠」とみなされる土壌がある、ということだそうです。
• 儒教の「巧言令色、鮮なし仁」
「言葉巧みで愛想が良い人物に、真の徳(仁)は少ない」という孔子の教え。
日本ではこれが「不言実行」の美徳へとつながり、「黙って行動する者が偉いのであって、理屈を並べる者は誠実ではない」という価値観を形成したのだとか。
この文化的文脈において、私がワークショップでやっていた「定義の確認」や「論理的整合性の追求」は、単なる議論ではなく、「徳のない未熟者が、言葉遊びで誤魔化そうとしている」という恥ずかしい振る舞いとして映っていたのかも知れません。
確かに、「不愉快さを感じさせる振る舞い」「徳のない未熟者だと感じさせる振る舞い」です・・・( ; ; )
「理屈」と「屁理屈」を分かつ境界線
言葉の意味を調べてみると、「理屈」とは本来「物事の筋道」を指す中立的な言葉。しかし、そこに「屁(取るに足らない)」がついた「屁理屈」となると、「道理に合わないこじつけ」や「自己正当化のための言い逃れ」という意味になります。
日本社会において、「理屈(ロジック)」が「屁理屈」へと堕落する瞬間はいつでしょうか?
(「日本社会」と括るのは好ましくありませんが、考えを整理するため、あえて「日本社会」というフレームを用いてみました)
それは、論理が「場の調和(和)」を乱すものとして使われた時(集団に捉えられた時)だと思います。
• 論理的: 第三者視点で、共通の課題を解決するために筋道を立てる。
• 屁理屈: 自分を守るため、あるいは相手を言い負かすために、自分に都合の良い筋道を押し付ける。
私が録画の中でやっていたのは、相手の感情やその場の「学びの空気」を無視し、自分の正しさを証明するためだけの論理展開でした(各質問時の1分程度の独壇場かな?)。
日本文化において、「情意的文脈(共感や察すること)」を破壊する論理は、もしもそれが正しいとしても「屁理屈」として処理されたり、嫌悪の対象となる、そんなこともあり得ます(というか、そういう場面にいたことがある)。
「恥」を知るということ
日本独自の対人有能感(コミュニケーション能力)の研究によると、日本人は「察する能力」と「自己抑制」を重視し、自己主張を強く行うことは「恥(Shame)」の感覚と結びつくとされている、というようなことを、専門の方から聞いたことがあります。
あの日、録画を見た私が感じた「顔から火が出るような恥ずかしさ」。
それは、単に失敗したからではなく、「言葉に頼らず察し合うべき場面で、あえて言葉にして理屈をこねくり回した自分」に対する、文化的な「恥」の反応だったのかもしれません。
しかし、この「恥」を感じられたことこそが、私が日本社会で再び信頼を取り戻すための第一歩になっているわけですから、不思議な展開です。
さて、ここで少し整理すると、
論理そのものが悪いわけではなく、それはわたしもわかっています。
ただ、「論理」は、「共感」に勝らない(優らない)ということなのかも知れません。
剥き出しの「論理」を振り回せば、それはただの「危ない人」と認識される、という意味です。
これは、社会で生きていく上で大事なことなのかも知れません。







