〜録画に映っていたのは、なりたくなかったわたし、という話〜
先日、仲間と一緒にオンラインの勉強会を行いました。
テーマは「成人発達理論とコーチング」。
時間は2時間、参加者は5人。うち2人は成人発達理論の専門家で、残りの3人は、コーチ歴25〜26年ほどで、この理論をさらに深く学びたいという立場でした。私はその3人のうちの一人です。
成人発達理論は、コーチングにおいて非常に有効な考え方だと、私たち3人は考えていました。(あ、今も考えています)。
3人は成人発達理論の専門家ではないものの、理論について一定以上の知識はあり、実際にそれを使って他者を支援してきた経験もありました。だからこそ、「もっと深く知りたい」「自分自身の理解やスキルをアップデートしたい」という思いで、専門家2人に指導をお願いした、そんなワークショップでした。
当日は本当に学びが多く、私自身もたくさん質問をしました。
その場では「いい時間だったな」「充実していたな」という感覚です。
ワークショップ終了後、その様子を録画した動画が送られてきました。
「復習用にどうぞ」という趣旨です。
正直、とても楽しみにしていました。
あの有意義な時間をもう一度振り返れる。
ただ、ちょうど出張が重なっていたこともあり、なかなか視聴する余裕を持てなくて、
1ヶ月ほど経ってから、ようやく再生ボタンを押しました。
……そして、私は
驚くことになります😢。
内容を復習する、というよりも、
そこに映っていた「自分自身のコミュニケーションのスタイル」に、強烈な違和感を覚えたのです。
私は確かに、たくさん質問をしていました。
でも、その質問の仕方が、今振り返ると、とても理屈っぽい。
「私はここまでは理解しているんですけれども」
「この前提に立つと、ここがおかしいように思うんですが」
そんな“私は知っている”という前置きが、ほぼ毎回ついている。
使っている言葉も妙に専門的で、どこか主張が強い。
観ているうちに、だんだん不愉快になってきました。
録画に映っていたのは、間違いなく“いつもの私”でした。
自分らしくない、とは思いません。
たしかに私は、普段からこういうコミュニケーションを取っているのだと思います。
けれど同時に、そこにいた私は、明らかに鼻高々で、どこか偉そうでした。
純粋に「知りたいから聞く」というよりも、
「自分はここまで分かっている。その上で言うと、これはおかしくないですか?」
そんな聞き方をしていたのです。
一言で言うと「理屈っぽい」私。
それは、客観的に見ても明らかでした。
そして私は、そこに強い衝撃を受けました。
なぜなら、私はずっと「そういう自分ではありたくない」と思ってきたからです。
知識をひけらかす人になりたくない。
分かっていることを盾に、人の話を切るような人にはなりたくない。
そう思ってきたはずなのに。
様々な知識を得て、経験を重ねていく中で、
私はいつの間にか、自分の経験を言語化し、
それを「ひとつの確かな答え」のように扱うようになっていたのかもしれません。
そして何よりショックだったのは、
そんな自分を見て「不愉快だな」と感じたことでした。
自分が、自分を不愉快に感じる。
それは、なかなかに苦い体験です。
でも同時に、
「自分が望んでいた自分とは、違う方向に進んでいる」
という事実を、初めてはっきりと認識できた瞬間でもありました。
私は、この出来事について、もう少し深く考えてみることにしました。
これから始まるこのブログのシリーズ(全10回予定)は、
そんな、私にとって少し苦く、でもとても大切な経験を起点に、
「自分をひもといていく旅」を綴っていくものです。
私が、
「私自身が望んでいない私」を、どのように見つめ、理解し、手放していくのか。
もしよければ、
この旅に、しばらくお付き合いいただけたらうれしいです。








